『メイクアガール』感想 (ネタバレあり)

誰にでもおすすめできる作品ではないが、私には刺さった。 『メイクアガール』はいいぞ。

全てのネタバレを踏み抜くくらいのつもりで書くので、ネタバレ注意

まだ観ていない人へ

本当は雰囲気をにおわせるようなことすらしたくないので、公式の「本予告」動画を観てほしい。 1分22秒しかないから。 そしてこれを観て面白そうだと思ったなら、この記事を読まずに劇場へ走ってほしい (あるいは配信か何かで観てほしい)。

劇場アニメ『メイクアガール』 本予告 /2025年1月31日(金)全国ロードショー! - YouTube

他にも60秒版とか30秒版とか「特別映像」とかバリエーションがいろいろあるが、それらは本編を観る前は一旦無視して良い。 インタビュー記事なども壮大にネタバレを踏みがちなので、観る前にあまり調べない方が良い。

この動画で「あっ刺さるかも」と思ったら劇場で観ておくべきだと思う。

ストーリー展開

展開自体にはこれといった驚きはなく、本編を観ながらなんとなく予想できる範疇の流れだった。 ……が、本作で楽しいのは稲葉のことが明らかになった2周目なので、すべてがわかっている状態で観ると作中の出来事の解釈が整っていくという楽しみはある。 「驚きの展開」ベースの物語でないぶん、繰り返しの視聴に堪える作品である。 結末の納得いくような受け入れたくないようなモヤモヤ感に中毒性があるのかもしれない。

しかし PV は煽りすぎだと思う。 シーンの切り貼りがうますぎる。 初回鑑賞前はもっと壮大な話かもしれないと思っていたのだが、実際に観てみたらかなり狭くまとまっていて順当な展開だったので逆に驚いた。 (なーにが「世界が変わるぞ〜」じゃ!)

キャラクター

登場人物、特に0号と明と稲葉以外の脇役はかなり記号的だったと思う。 物語において果たすべき機能と人間としての体裁の最低限が実装されているというか、それ以外の深みを特に感じないというか。 悪役となる絵里ですらそうなのだから、本作の本題はとことん0号と明と稲葉の3人の動きによって表現されているといえる。

性癖

大変刺さった。

セルフ首絞め

そもそも完全にノーマークだったのに観ることにした決め手が、 PV の首締めシーンだった。

「公開記念PV」に、0号が自分の首を絞めるシーンがある。

不本意な自傷を強いられる女の子、とても良い。

「公開記念PV」における1シーン。0号が自分の首を絞めながら鬼気迫る表情でナイフを振りかざし…… そしてこちらへ振りおろす。

自傷しながらもナイフで刺してくる女の子、あまりに良い。

そう、この PV だけでセルフ首締めガールが2回も出てくるのである。 こんなの観るしかない!

……などと書いてしまうと誤解されかねないのでもう少し書き足しておくが、べつに私はゴア表現そのものが好きというわけではない。 ただ「身体をコントロールされて不本意な行動を強いられる」のが「かわいそうはかわいい」方向で好みなのと、「自傷や犠牲を厭わない覚悟ガンギマリ」が好みなのの複合で、どちらにせよセルフ首絞めが刺さってしまうというだけである。

これについて考えていて思い出すのは TV アニメ『ひぐらしのなく頃に』だ。 こちらでも、ガンギマリの覚悟で暴力や殺人が発生しがちだった。

梨花「でもお前なんかに拷問で殺されるくらいなら、悪いけどお先に退場させてもらうわ」

自尊心と引き換えに命を断つ梨花。 (アニメ『ひぐらしのなく頃に』20話「目明し編 其の伍 冷たい手」より)

レナ「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」「どこで変になっちゃったんだろう」「わたしはみんなを信じてたはずなのに」 (アニメ『ひぐらしのなく頃に』26話「罪滅し編 其の伍 リテイク」より)

そういうわけで、ひぐらしを楽しめた (つまり出題編でリタイアしなかった) 平成中盤のオタクの性癖にはとりあえず刺さりやすいのではないかと思う。

「公開記念PV」には、0号が自分の首を絞めるさらに別のシーンがある。
なんと本編にはガンギマリタイプだけでなく「かわいそうはかわいい」タイプのセルフ首締めも登場する!お得!!

覚悟ガンギマリの0号の動きと声と愛ノゼロを大音量とデカいスクリーンで楽しめるというだけでも、劇場で見る価値がある。 ここは体験要素なので、あとで円盤や配信で観るかはさておいて劇場で楽しみたい。

武器

武器を振り回すのは最後のクライマックスのシーンだけだったのにかなりの満足感があった。

振り回すといっても、見どころのある戦闘とかではなく単に原始的な形で力を振るって創造主たる明を害そうとしているだけのシーンだが。 暴力のために生み出されたナイフを、暴力のド素人が、圧倒的な暴力の意志をもって振り回す、そのギャップに萌えがあるのだ。

画と動き

画と動きについては驚くほど違和感がなかった。 全編 CG の TV アニメでどうにも画や動きが好きになれないと思っている人にも躊躇なくおすすめして良いと思えるレベル。

以下の画像はすべて本予告公開記念PVのキャプチャ。

0号が自分の気持ちに気付くシーンなどは特に、マジでかわいかった。

省かれたディテールと誇張

脇役が記号的なのもそうだが、本筋でないところの描写がかなり省かれていたりテキトーだったりする。 気になるか気にならないかといえば大して気にならないが、ツッコミどころには違いない。

  • 第三人類って何?
    • ソルトが第二人類で明と0号が第三人類。
    • 詳しくは小説版に記載がある (初版 p. 29, pp. 169–170)。
    • インタビュー記事等でも言及があったかも。
  • 普通のマンションっぽいのにあんなにデカい部屋があるのか?
    • そのように改造された (何層かぶち抜いた) 物件らしい。
    • 入場者プレゼント第2弾のブックレットのインタビュー (p. 7) で言及されている。
  • 明のラボのリフト (?) が危険すぎる
    • 掴まって降りるスタイルだけなら滑り棒と大差ないのでまだわかるとして、操作盤どころか電源らしきスイッチが乗り場ではなく足場側にあるのがあまりに安全性のセンスを欠いている。
    • 絵里が最初にスイッチを操作する場面で「あっこれ事故る!」と思ってしまった (雑念)
  • 明は研究が不調なのに第三人類である0号は作れるのか?
    • 明が難航していたのは新規の発明や稲葉が残した設計の改造であって、0号は稲葉が残した設計をそのまま再現しているので作れた。
    • 詳しくは小説版に記載がある (初版 pp. 168–170)。
  • 0号が学校に転入してきたとき大騒ぎにならなかったのか?
    • なったのに描写されなかっただけかもしれないし、明が稲葉同様の化け物だと思われていたため受け入れられたのかもしれない。
    • 本題に関係ないのでどちらでも大して重要ではない。
  • クライマックスで絵里が空気になっている
    • 放置されたままガンギマリを眺める羽目になったお姉さんに涙を禁じえない。

カップ麺を作る装置の不必要なまでの大仰さとか、ラボのリフトの安全性皆無なところとか、不死のクラゲが一瞬で復活してるところとか、いろいろ本質でない部分のツッコミどころというか引っ掛かる点は多いが、概ね「画作りのための誇張されたデザイン」だということで飲み込んだ。 描き方を誇張しているのではなく、描くものそのものを誇張しているということだ。

こういう誇張やテキトー描写は真面目に観ていると雑念となって鑑賞を邪魔しがちだが、本題でないということで一旦忘れておけるなら問題ないだろう。 こういうのがずっと引っ掛かって作品の最終評価に影響するタイプの人にとっては悲しいことだったかもしれないが。 かくいう私も一旦気付いてしまうと結構引っ掛かるタイプだが (e.g. アニメ『リコリス・リコイル』8話)、“雑念” だとわかっているのでネタにする程度で、作品の評価とは分けて扱うタイプなのであまり気にしないことにしている。

解釈と考察

作中で起きた出来事については多少解釈に幅があるだろうが、以下のリソースを見ればほぼ定まる。

特に小説版は映画との一貫性を保ちつつ情報を補完しているので、映画本編を観て何やねんこれと思う箇所があったら小説版を読めばだいたい解決されるだろう。 そういうわけで、「何が起きたのか」については実は考察の余地はたぶんあまりない。

余談だが、小説版『秒速5センチメートル』にアニメ本編で描かれなかった「手紙」の内容が載っているのを思い出した。 『メイクアガール』でも映画本編で音を乗せられなかった台詞や明示されなかった設定などが隠さず書かれており、 原作に忠実でありながら情報を補完するノベライズとしての共通点を感じた。

稲葉の一人勝ちなのか

こういう文句なしのハッピーエンドで終わらない物語の余韻を考えるとき、各々が得たものと失ったものの収支を考えることにしている。

  • 0号: 明から自我と “本物” の愛の認知を得ようとして、自我の存在の主張 (自尊心とでも言うべきか?) を貫き、代償に明との未来を失った
  • 明: 母である稲葉の研究を引き継ぐことを試み、稲葉を再び得て、代償に「家族」になろうと思えた0号 (元の中身) を失った
  • 稲葉: (映画本編で非開示) を得ようとして、新たな肉体と明との未来を得て、代償に (映画本編で非開示) を失った

こうして劇場版だけで収支を確認してみると、たしかに稲葉が一人勝ちしているように思えるのも無理はないが、実のところ稲葉とて最終的に全てを手に入れたわけではない。 稲葉が失ったものについては、『メイクアガール episode 0』と、小説版2冊のゲーマーズ連動特典書き下ろし4Pブックレット (通称「怪文書」) を読むと良いだろう。 そんなに複雑なことではないが、映画本編では語られていなかったように思うので、ここではネタバレせずにおく。

それから、これも映画本編で語られず小説版と episode 0 からの情報になるが、稲葉が復活しようとするのは個人的な欲望というよりもノブレス・オブリージュ的な側面が (踏み込んだ内心は不明ながら少なくとも体裁としては) 前面に出ており、その意味では稲葉は (信念を貫いたという面もあるだろうが) 社会を利するために個人的な代償を支払ったということになる。 それをそのまま信じるか、それとも建前にすぎないとして一蹴するかは読者の解釈と信仰に委ねるほかないが……。

明と稲葉の対話

明がソルトに気絶させられて稲葉と対話するシーン、最後の「生きなさい。あの子と一緒に」で明の目が黄色くなっている。 これが稲葉による明の意思への干渉だと考えるとかなり怖くなってくる。 明が (0号と違って) これを素直に受け入れているのは、単に自分の欲求と方向が一致しているためなのか、それとも稲葉による初期の「教育」がある程度十分だったゆえ自我が薄いためなのか……。

明が (肉体的な面だけでなく) 内面的にも「人間サイド」の主人公として脱落して「作り物」サイドであることが突き付けられるのがこの瞬間で、かなりインパクトのあるシーンだったと思う。 このシーン以前は「明が稲葉の被造物でノンデリだったとしても、やっぱり人の心っぽいものは持っているし擬似的に人間なんでしょ」となるが、このシーン以後は「やっぱこいつ人間とは決定的に精神面で違うじゃん……」となる。尤もそのように線を引いた結果、後述のブーメランが刺さることになる。

明の人間らしくなさとブーメラン

作中で稲葉の介入・干渉が明らかになるまでは、0号に対する明の振舞はまったく人間としての愛情やそれへの理解を欠いていると思われるだろう。 ところが明が稲葉による被造物であると明らかになった段階で、その認識は改める必要がでてきてしまう。

明は母たる稲葉の研究をうまく引き継げないことに苦悩し0号を突き放したが、その苦悩は稲葉による情報開示と「生きなさい。あの子と一緒に」という言葉ですっかり解消されてしまい、しかも母の愛によって「パワーアップ」したのか、はたまた教育が不十分だったゆえ欠けていた知識を稲葉の干渉で補充されたのか、独自の言語で書かれた稲葉の記憶を完璧に解読できるようになってしまった。

この変化は0号と対照的であるといえる。

明ははじめ創造主の願い (だと明が思い込んでいただけだが) 通りに研究を継承できていないことに苦しんだ。 その後実は創造主の願い通りの行動ができていて愛も注がれていたと実感することで安心し、さらには創造主の願った通り0号を家族として迎えにいこうとする。 明は創造主たる稲葉がそう作った通りの行動をすることに苦痛や抵抗を覚えていない。

逆に0号は最初から創造主の当初の願い通り平均的で普通の女の子、かつ明の「カノジョ」になってそれらしく振る舞うことに成功している。 その後実はそれが創造主の期待に沿わないものであったことが判明し、苦しむことになる。 0号は創造主たる明がそう作ったとおりの行動をすることに苦痛や抵抗を覚え、自分の愛が本物であると証明しようとする。

こうして比べてみるとどうだろう、むしろ最終状態として創造主の意図した通りに行動することで満足しており、しかもそのことに抵抗を覚えない明の方がよほど作り物らしいではないか。 0号は創造主の意図したとおりに動くよりも自らに芽生えた自我の証明を優先しており、こちらの方が視聴者の目にはよほど「成長して人間らしさを獲得した」人造人間に見えることだろう。

「0号がかわいそう、明に感情移入できなかった」のような感想も散見されるがこれはある意味では当然のことで、0号の方では自我 (「私」の感情) を認識した瞬間が明示的に描かれているが、逆に明は言ってみればその精神が単なる「作り物」の人造人間のフェーズを脱却した形跡が (少なくとも劇中では) 描かれず、明の感情をそのように発生するよう設計された作り物でなく自らの精神から発生しているものであると考える根拠は提示されない。 初見の中盤までは「視聴者から見て、明がより人間側に位置していて0号が作り物側に違いない」という先入観で物を見てしまうが、実は0号がより人間側に位置していて明が作り物側なのだ。 情報の出し方によってそのように印象を誘導されたゆえではあるが、最初から感情の移入対象を間違っているのである。

とはいえこのような解釈をするならするで、今度は中盤までの、特に0号のために明の研究が順調にならないことの苦悩は同情に値しないのかという問題が出てくる。 すなわち、0号がかわいそうで明はかわいそうでないという発想は、次のような主張を含意している。 「0号は健気で人間的だから明のカノジョでありたいという願いが明の期待と両立しないことの苦悩は同情に値する、しかし明は比較すると十分に人間的とはいえないから稲葉の後継者でありたいという願いが明の現状の能力と両立しないことの苦悩は同情に値しない。」 これはまさに、作中で0号の感情は作り物で本物ではないとして告白を一蹴し別離する、明の思考と行動のパターンに構造的に極めて類似している。

つまり端的にまとめると、視聴者が0号に同情し明を非難したくなる気持ちは、まさにその非難対象である明のノンデリな行動と同じ原理のものなのである。 自らが人の心を持っていると信じている視聴者自身を、その視聴者に人の心がわからないと評されている明の側に重ねてしまう、実に巧妙なブーメランだ。 これに気付いてもなお、人の心がわからない明が全面的かつ一方的に悪くて同情の余地がないと言い続けられるだろうか? (ところで: ブーメランは投擲者の命を刈り取る理不尽な凶器ではない定期)

その他の話題

救いがないから良い、明に感情移入はできなくていい

1周目の後でモヤモヤした気持ちを抱えつつ感想や考察を漁っていると、「明に感情移入できなくてつまらなかった」とか「あの終わり方はない」のような感想が見られた。 それ自体は個人の感想なのでいいとして、私は感情移入できずあの終わり方だからこそ良かったと思うという話は書いておきたい。

まず感情移入については先に述べたように、明が主人公に見えるのはある種のミスリードで、視聴者から見て精神的な在り方がもっとも「人間」に近いのは後半の0号だ。 明は稲葉にそのように作られた精神のまま強い独立した自我を持つことなく物語終盤まで動いており、どちらかというと「作り物」サイドの存在である。 つまり作品のギミックに見事に乗せられた形になっており、むしろ最初から一貫して明を人間サイドに置かない視点を提示されてしまったことを楽しむと良いと思う。 私もまんまとハメられて「答え合わせ」のために2周目を観てしまった。

0号視点での救いのなさについては、むしろ作品のテーマからしてもあの終わり方で良かった。

膨大な時間、他のやりたいこと、人間関係、自分の健康といったさまざまな代償――いわば自分の「人生」すべてをつぎ込んでまで達成したい夢には、本当にそれに見合う価値があるのか――。『メイクアガール』ではそんな問いかけをしたかったんです。

—— 安田現象監督が語る劇場アニメ『メイクアガール』に込めた哲学① | Febri

0号は明に自分の愛が “本物” であることを認めてもらいたくて勝負に出て、その結果「負け」を認めて消えることになる。 ここで勝つような物語もありえるだろうが、それはつまり「明はパワーアップしました、0号は愛に目覚めて本当の自我を獲得しました」という特に失うものもなく儲けて終わった話でしかない。 そうなるとバランスをとるリスク&コスト要素として、何かを得るまでに苦労と勝負があるものだが、本作で明は本当に何も賭けておらず、0号も最後の最後に一回だけ賭けに出るだけだ。 (カーチェイス場面は勝負といえば勝負かもしれないが、個人的にはあれは単なるアクションシーンであって明が何かをベットしているとは思っていない。大事なことは茶色のソルトで動いている稲葉がやっているし……。)

つまり円満に収まると、「濡れ手に粟で良かったね」という薄っぺらい話になってしまうわけである。 そして稲葉も「家族思いの良いお母さんでした」ということになる。 もはやサスペンスでも何でもない。ただの広義日常モノだ。

そうなるよりは、0号も稲葉も (一応明も) 目的のために全力を尽くし、その結果ベストとは言えない結論が出てしまい、「どうにかならんかったんか……いやどうにもならんか……」というモヤモヤが残るという話の方がご都合主義的でなく深みがあるといえる。

もちろんこういったモヤモヤする話が合わず楽しめない人もいるだろうが、それは好みと合わなかったという話であり、この作品の「悪かった点」ではないと思う。

コナンは見せ場か?

カーチェイスのシーンを「『名探偵コナン』リスペクト」などと言っている人がおり、それを見て以降コナンとしか思えなくなってしまったので、ここでも例のシーンを「コナン」と呼ぶ。

コナンを本作の見せ場だと考えている人がいたらしく、私はそう思っていなかったので面白く思った。 というのも、基本的に本作ではあまり長続きするアクションシーンがないのでコナンは動きやメリハリを確保するためにある種のノルマ的に入れられた「義務アクション」だとさえ思っていたからだ。 言ってみればラブコメアニメに水着回が挿入されがちなアレみたいなものである。

そもそも心情面での動き (亀裂が入って暴発するまで) を主題と思って観ていたので、アクションを重要と位置付ける感覚がなかった。 「これだけのことを CG アニメで自然にできますよ」というデモとしては十分に機能しそうだったし、力が入っていないということはないと確かに思うのだが、一方で「テーマ的に重大でもないけどアクションには力が入っている」ということ自体が逆に「作品の外側の都合」みたいなものを微妙に匂わせられた気がして微妙にスッキリしない。 (もちろんこれは根拠のない私の思い込みであり、雑念でしかないが……。)

そういうわけで私はコナンがそこまで見せ場だと思わなかったし、アクションが無かったとしても個人的な作品の評価はそんなに下がらないかなとさえ思っていたので、コナンが見せ場である (なんならコナンのシーンが物足りなくて勿体ない) という意見を見て少々驚いた。 だから何というわけではないが。

明と稲葉の関係

明からみて稲葉はかつて母であり、そして明が作った0号の身体に転生したことで明の子供となり、そして明と0号は両方とも稲葉の設計によるものという点でニュー稲葉は明の妹でもある。

ハインラインの『輪廻の蛇』を思い出すような話だ。 とか言ってしまうと若干ネタバレになるが……実は (メイクアガールとは違って) ネタバレが致命傷になるタイプの作品なので、興味があるなら絶対に事前にネタバレを踏まずに輪廻の蛇を読んでほしい。 どうせ超短編なので。読むよりも図書館に行って帰ってくる方が時間がかかるくらいだ。

小説版の特典商法

メロンブックス、アニメイト、ゲーマーズそれぞれで店舗限定特典として異なる SS (短編) が用意されている。

この作品を後から知った人々が怪文書を読めないの、本当に良くないと思う!!!

公式の悪ノリ

総括

予告 PV では「超新感覚サイバーラブサスペンス」などと書かれていたが、実際概ねそのとおりだったと思う。 サスペンスであってミステリーではなく、細部にツッコミどころは無数にあるがいずれも本題の重みを毀損するものではないと感じた。 すべてが丸く収まって成長とともに平和に終わるような文句なしのハッピーエンドの物語ではなかったが、表面的には (0号以外の視点から見れば) ハッピーエンドに収まっているという据わりの悪さもサスペンスとしていい感じの後味になっている。

展開については肝を抜かれるような驚きはないが、むしろ前述のミスリードと後味も相俟って、そしてなにより見所がトリックそのものではなく基本的に画と動きと演技なので、複数回の視聴に堪える作品になっている。

見どころはやはり0号。画も動きもかなり観ていて心地良いし、0号はちゃんとかわいい。 0号が動いているところを見たいという目的で観るならほぼ文句無しの出来だと思う (もう少し0号の出番が多くても良いと思うが、90分でストーリーを成立させるならこんなものかなという感じもする)。

クライマックスの覚悟ガンギマリのシーンは劇場で見て本当によかった。 あと癖 (ヘキ) に刺さった。

『メイクアガール』はいいぞ。