冥福と、浅ましい祈り
訃報を聞くとすぐに「ご冥福をお祈りします」と SNS に投稿する “冥福祈りマン” は、自分が何を言っているのかわかっているのだろうか?
湧き出る冥福祈りマン
SNS を観測していると、有名人 (特に徳が高いとされがちな人) が亡くなった際に「ご冥福をお祈り」する投稿が流れてきがちであるが、この短い一言を見るだけで私はいつもけしからんことだと思う。 もちろん中には全面的に筋の通った冥福祈りマン (ここでいうマンは性別等を問わず人間全般を指す用法で使っている) もいることだろうが、その割合は決して多くないと思っている。
発言者は冥福が何なのか、冥福を祈ることが具体的にどのような世界観のもとで何を望んでいることを意味するのか、わかっているのか? 訃報を出しにして “徳アクセ” で着飾ろうとすることを恥ずかしいと思わないのか? そういった疑いとともに失望あるいは軽蔑の念を感じずにはいられない。
そもそも冥福とは何なのか (しりません)
そもそも冥福とは何なのか……というのは実は本題とあまり関係ないといえばないのだが、一応紹介しておこう。 大多数の冥福祈りマンは知らないだろうし。
軽く調べた限りでは、これは浄土真宗 (仏教において国内でシェア最大の宗派) あるいは神道などで使われる概念ではないらしい。 「使われる概念でない」というのは控え目な表現で、むしろ場合によっては死後に関する教えと真っ向から反発するような概念でさえあるようだ。 こういった言及をするとき本当は信頼できて検証された出典つきでやるべきなのだが (信頼できない情報源が多そうなので)、今回これは本題にあまり関係しないのでこれくらいにしておく。 ぜひとも有識者にまとめてほしい (他力本願 (誤用) (仏教用語))。
浄土真宗では「冥福を祈る」ということはしません。これは亡くなった人を「仏さま(既に成仏した方)」と見るためで、冥土の世界で過ごすことがそもそも無いと言うことです。
「冥福」「成仏」「供養」「往生」などは仏教用語のため、使わないように気を付けましょう。かわりに御霊の「平安」「拝礼」などと言った言葉が神式のお葬式ではお悔やみの言葉になります。
仏教では、「死」はこの世の生の終わりを指し、閻魔大王の裁きを受けた後に成仏できるかどうかが決まります。そのため、故人の成仏を願って行う儀式がお葬式や法要にあたります。この思想があるため、お悔やみの言葉にも「冥福」「成仏」「供養」などといった言葉が使われるのです。
「故人の死を悼んで“お悔やみ”を述べる」という考え方自体が、仏教固有のものと言えます。但し、人は亡くなると同時に阿弥陀様に救われて成仏するとし、「冥途」という概念がない浄土真宗のような宗派もあります。
誰のための祈り
さて、「冥福を祈る」ことが適切である場面がそれほど多くないことがわかったが、では SNS で冥福を祈っている人々が皆国内におけるマイナーな宗教を信仰しているのか? 俄かには信じがたい話である。 では逆に故人の宗教がどうかというと、国外であればまだしも、日本人だとそもそもこれが明らかでないケースも多いだろう。
つまり多くの場合、客観的に考えて「冥福を祈れる宗教の流儀」を選択すべき理由は特に思い当たらないということになる。
無邪気な冥福祈りに潜む醜さ
明確な意図と自覚もなく「冥福」を祈ることが真っ当には思えない。 表面的には礼儀を伴っているかのようなその行いはむしろ、多くの人にとってはとても胸を張って主張できたものではないであろう内実の醜さを備えている。
礼儀
礼儀の面では、まず相手の宗教も知らず特定の宗教様式を押し付けること自体が無礼と考えるべきである。 「冥福」ではピンと来ないかもしれないから架空の新興宗教を想像してみよう。
とある新興宗教では、すべての人々の魂は死後世界を彷徨いつづけ、神であり教祖でもある X の導きによって救われるとしよう。 信者はきっと誰かが亡くなったとき「X さまのお導きで魂が救われますように」などの文句で祈るのかもしれない。 では、これをその宗教の外側で発言することは社会性があり礼儀を伴っていると思えるだろうか?
あなたの大切な人が亡くなったとき、見ずしらずの人や通りすがりの人、あるいはちょっとした知り合いから「{{あなたも故人も全く信仰も信用もしていない神や指導者}} のお導きで魂が救われますように」などと祈られて心が安らぐだろうか? あるいは「{{あなたも故人も全く信仰も信用もしていない神や指導者}} の宗教を信じていない人がいるなんて想像もしていませんでした!」と言い訳されて「そっか、じゃあ仕方ないね、無礼だったなんて言わないよ☺️」という気持ちになれるだろうか?
無思慮に「冥福を祈る」というのは本質的にそういうことである。 それでいいと思う人はそれで良いかもしれないが、まず冥福を祈る人々は自分の行いを客観的に捉えるべきであろう。 実際にやられてトゲトゲした気持ちにならない人はきっとそんなに多くないと思う。 そして多くの人の気持ちを悪い方向に刺激するようなら、そもそもそれは礼儀やマナーとして機能していない。
米に箸を立てろ
「冥福を祈る」は元ネタの宗教の文脈を離れた慣用表現であるから許される、と主張する人もいることだろう。 だが、故事成語のような迂遠な表現ならともかく、「冥」「福」を祈るという直接的なフレーズから元ネタの死生観や宗教観が綺麗に抜き去られたとするのは少々無理がある。 少し調べればより中立な代替表現がみつかるのに敢えて「冥福」を祈るのなら、そのワードの選択に何らかの意図があると読み取られても仕方のないことである。
こうしたことを考えるときいつも、茶碗に盛った米に箸を立ててはいけないという行儀のことを思い出す。 米に箸を立てるのは、これまた仏教か何かに関連して死者に対しての作法であるから生きている人の飯で行うのは良くないとされているという話である。 (もっとも、行儀の良い箸の扱いというのはただでさえ禁止事項が多いので、こういった理由も後からこじつけられただけの可能性はあるが……。)
「べつにあなたも私も仏教徒ではないが、仏教における死者への作法だから仏教以外の文脈でもマナー違反とする」を堂々と主張できるなら、同様に「べつにあなたも私も冥福を祈ることが失礼にあたる宗教の信徒ではないが、それが失礼になる宗教もあるからその文脈以外でもマナー違反とする」も構造的に同じであり同様に受け入れられて然るべきである。 どちらかのみ妥当であるとするのは一貫性を欠くではないか。
もし前者 (米に箸を立てるのは死者への飯を想起させて良くない) は当然だと思っているのに後者 (冥福を祈るのは良くない) を同様に当然だと思えないのであれば、そこには「冥福の特別扱い」あるいは冥福を祈ってきた自分への特別扱いがあるということであり、自らの行いと考えを省みるべきではないだろうか。
死者で着飾る現代ファッション
故人の信仰に寄り添っているわけでもない、遺族に寄り添っているわけでもない、自分の信念と宗教観から発した言葉でもない。 そんな「ご冥福をお祈りします」投稿の意義とは一体何なのか。 答えは「自身のアカウントに装着して『私は礼儀正しく社会性があり、他人の訃報で悲しめるほど情緒も豊かで、そして人のために祈れる徳までも備えた人間です』とアピールできるアクセサリ」である。
口頭でのリアルタイムの対話で出てくるならまだしも、 SNS に流す文はお手元の板なり箱なりで入力しているはずである。 その板なり箱なりで一度でも「冥福」が何なのか調べて意味を探れば、特定の宗教の文脈を多分に含んでいるようだということは簡単に察せられる。 ということは、無思慮に冥福をお祈りしている人たちは自分が何を言っているのか理解せず、かつ、その意味を調べようともせず投稿しているということだ。 自分でも何を言っているのかわからないまま何か言っている様子を、本心からの哀悼であるとどうして信じられようか?
しかし冥福祈りマンにとっては、意味などどうでもいいし本心であるかどうかも関係ない。 なぜならこれは無料のアクセサリーであり、お手軽に社会性と徳をアピールするという機能こそが重要だからである。 自分を良く見せようというアクセサリーとして最大限の機能を発揮するには、「惜しい人を亡くした」とか「悲しい」とかの比較的平易で素朴な表現よりも、もうちょっと日常の語彙から遠く堅苦しそうな表現の方がかしこく見えるので望ましい。 道理で皆よくわからない冥福を祈るわけだ。 ……とまで言うと穿ちすぎと言われるかもしれないが、少なくとも私は、冥福祈りは社会性アピールのためのファッションあるいは徳の高い自分に酔える玩具としての側面が非常に強いしその側面は簡単には否定できないと思っている。
冥福祈りマンは自分を良く見せるファッションとして祈っているわけだが、残念ながらその意図とは裏腹に、物言わぬ死者 (多くの場合面識もない) を利己的にファッション化する行為は実に浅ましく映る。 見る人の信仰によっては冒涜的とすら感じるかもしれない。 死者には人権も尊厳もないから恥じることなどないし、好きにアクセサリにさせてもらうぜ! という思想を持っていようがそれはそれで人の勝手だが、内心はさておき、それを強く感じさせるアクセサリは大衆に見せるには少々尖りすぎているように思う。
まあでも、死後の世界を信じているでもなくそもそも相手の宗教も知らない、そもそも「冥福」が何の宗教の概念なのかもよく知らないのに堂々と「ご冥福をお祈り」とかできる人、本当にすごいと思う。死者に尊厳なんてないから宗教ミスマッチなんてあっても関係ないもんな。
ロックな生き方を貫いてほしい—— https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/107059124383055839
そもそも自分で何を言っているのかわからないまま喋るな
これに尽きる。
口頭での会話などリアルタイム要素のある場では聞きなじみのあるフレーズが確認する前に口から飛び出してしまうことはあるだろうが、 web に容易にアクセス可能な状態で、自分の手で文字として打って発した言葉の意味が自分でわからないというのはさすがに擁護が難しい。 マルコフ連鎖 bot じゃあるまいし。 社会性や徳などの前に最低限の思慮を備えた方が良い。
結局何なのか
べつに私は、いつ何人たりとも冥福を祈ってはいけないなどと言いたいわけではない。 本心から冥福を祈るような宗教の人々もいるだろうし、あるいは皮肉として意味をわかったうえで宗教を跨いで “冥福” を祈りたくなるような相手だって世の中にはいるだろう。 あるいは死者に尊厳がないことをアピールしていきたいという思想的な活動の一環として、あるいは他所の宗教を理由に行動を制限されるべきではないという思想の表明のために、あるいはこのようなブログ記事を書いてしまう厄介なオタクとは違って社会と慣習に無抵抗で従順であるというアピールのために……。
誰がどのような思想を持っていようが個人の勝手だし、他人の内心などどうでもいい。 それで利害がぶつかるなら棲み分けなり言論バトルなり政治活動バトルなり暴力革命バトルなりが状況に応じて発生するだけである。 (私は善良な市民なので暴力革命を推奨していません!)
私はただ、無邪気に「冥福を祈る」ことの浅ましさと無礼さを、考えたことのなかった人に気付いてほしいだけである。 有名人や偉人が亡くなるたびにそこかしこで冥福を祈る醜い姿 (主観) を浴びせられるのでは辟易もしようというものである。 礼儀正しくあろうとするすべての人々が、誠実であろうとするすべての人々が、そして特に私の観測範囲にいる人々や親しい人々が、これといった理由もなしの無思慮な「冥福」を祈らなくなることを、願ってやまない。