反語を使わない理由があろうか。いや、ない。

若かりし頃の日常をどうして忘れられようか。いや、忘れられない。

反語、あるいは修辞疑問文

もはやいつどこでのことだったか思い出せないが、学校での思い出を話そう。 小学校か中学校か高校かもわからない、その授業が国語か現代文か古文か漢文かもわからない、しかし少なくとも学校の何らかの授業で反語表現、特にその一種である修辞疑問文を教わったことがある。

修辞疑問文とは、疑問などでなく主張や確信であるようなことを、表面的には疑問の形で表現するという技法が適用された文のことである。 これは表面的な表現と文脈が食い違うことから解釈の変更が自然となるというメカニズムなので単体でわかりやすく例を出すのは難しいが、たとえば「自転車の鍵どこにある?」「私が知ってると思う?」の後者がそうだ。 「私が知ってると思う?」というのが本当にそう思うかを聞いていると解釈するのは不自然で、ゆえに「知っているわけないよね (そしてそのことをわかっているはずだよね)」という含意を読み取るべきということである。 「知っているわけない」という疑問でもなんでもない主張を形式上は疑問文として表現しているのが修辞疑問文だ。

さて、これが教科書でどう解説されているかというと、もちろん文脈がどうとか解釈がどうとか小難しいことは書いておらず、疑問文の後ろに「いや、ない」や「いや、(反対の内容)」などと付け足すと自然になるものがそうだといった具合でふんわりと説明されており、具体例でイメージを補完するという構成になっていた。 その具体例、というか適用例というのが子供の頃の私 (たち) には面白かったのである。

反語表現を解除できないはずがあろうか。いや、ない。

実際の文は紹介できないが (おそらく解説対象のテキストに含まれていた修辞疑問文だっただろう)、イメージとしては次のような感じである。

  • 「これだけの布陣で戦に負けることがあろうか? (いや、ない。)」
  • 「ケーキが嫌いな子供などいようか? (いや、いない。)」

普通の読解力があれば、このような形の疑問文がそれらしい場所に出てくれば込められた意図が疑問ではなく、むしろその否定であることは子供でもわかる。 もちろん当時授業を受けていた私たちだってそれくらいはわかっていた。 そのうえで解説のためにわざとらしく「(いや、ない。)」などと付け足された修辞疑問文が滑稽で仕方なかったのである。

野暮ではあるが、これが面白かった理由を考えてみると次のようになるだろう。

  • 前半の (初歩的ではあるものの) 技巧的表現と、後半の婉曲性の欠片もない露骨な直接さのギャップ
  • 丁寧に組み立てられた前半の疑問文と、それを即堕ち2コマばりの勢いで素早くスポイルする後半のハイテンポなリズム
  • 見ればわかることにわざわざ丁寧な蛇足がつくことのアンバランスさと無意味さ
  • 本来他者に対して発されたコミュニケーションの言葉なのに、自分の疑問に自分で答え自分の発言を自分で否定するという一人芝居のように改変するという、ある種の小馬鹿にするようなコラージュをよりによってお堅い教科書がしていることの不謹慎さ

こうして振り返ってみると、いわゆるインターネットのキモ・オタクが好きそうな性質がてんこ盛りである。 しかもそればかりか、「いや、ない。」は端的で汎用性が高く、しかもクラスや学年の全員が知っている教養なのである。

これが流行らないはずがあろうか。いや、ない。

流行

かくして反語 (と呼ばれていた修辞疑問文) は流行した。 目につく範囲の男子たちは意味もなく修辞疑問文を乱用し、「一緒に飯を食わない理由があろうか?」「いや、ない。」とか「教科書を持ってきたはずがあろうか? いや、ない。」とか、とにかく「いや、ない。」を付けては笑いあったのである。 少年の日の思い出だ。

少年の日の思い出といえば「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。」も当時人気のあるフレーズだった。 こちらは日常における応用が些か難しく下火になるのも早かったが、ここぞという場面で掘り返されたりして静かに生き延び続けた。

オタクの大喜利

当時を振り返って思うが、これはまさしく現代の (一部の) オタクたちがやっている、ミームや語録や「構文」による大喜利的会話そのものだ。 文脈に紐づいた構造や機構を、文脈から切り離し、表面的な意味や汎用性を利用して無関係な別文脈で転用する。 アニメや UGC で無限に元ネタが供給される現代のミームとは質も量も違う貧弱なライブラリだが、たしかに修辞疑問文の解除 (そしてエーミールの発言) はあの時代の私たちにとって大喜利の道具であり、「素材」だった。

未だ SNS を知らぬ少年たちはそうしてインターネットのキモ・オタクとしての会話スキルを無自覚に鍛えていたのである。マジかよ。

結論などあろうものか。いや、ない。

思い出話は以上だ。

だから何という話ではないが、インターネットのキモ・オタクたちが息をするようにしている “会話 as a 大喜利” はどうもインターネットや SNS の存在を前提としないところにも面白さの源を持っているらしいと気付いたので、こうして記事でメモすることにした。

なんでもインターネットや SNS のせいにするのはやめましょう。