くだらない小ボケにツッコミされることを鬱陶しく思うことに不思議はない

ボケなら何でもツッコミを入れておけば良いというものではない。

文脈

『名取さなの毒にも薬にもならないラジオ』の第107回で以下のような投書があったと聞いた。

名取さなさん、スタッフの皆さん、こんばんは!

私はくだらない小ボケをよくしてしまうのですが、それにツッコミされることに対してムッとしてしまいます。

例えば「今日が楽しみすぎて、夜しか眠れなかったわ」と言うと「ちゃんと寝てるのかよ(笑)」とか、「まだ月曜日か、疲れすぎて金曜日かと思ったわ」と言うと「勘違いしすぎだろ(笑)」とか……。

私がしょうもないのは間違いないですし、それを丁寧に拾ってくれる友達や会社の同僚に感謝こそすれムッとなるのは理不尽なのですが、それでも「拾ってほしい発言じゃないんだよな」「それはボケそのものだろ!」と反発してしまう所があります。

反応まとめ (どくラジ #107 - posfie (pp.36–43)) を読む感じだと、理解できないという意見がかなり多いようだが、実はそのようなツッコミを (「ムッとする」かはさておき) 愉快に思えないことは妥当であり、むしろツッコミを入れる方が会話が下手なのではないかという話をこれからする。

Disclaimer: 私はネットラジオを聞く習慣がなく、当該放送あるいは当該部分も自分で聞いたわけではない。

小ボケへのストレートなツッコミには問題がある

まず小ボケへの応答としての「安直でストレートなツッコミ」そのものについて、客観的に、以下のような性質がある。

  • 「夜しか眠れなかったわ」に対して「ちゃんと寝てるのかよ(笑)」という返答は会話中で一切情報が増えていない。 なぜなら「夜は寝てるんじゃん」というのはボケ発言の焼き直し、言い換えでしかないからで、これが『それは (私が今言った) ボケそのものだろ!』という感想になる原因であろう。 つまり会話に何ら新しい情報や話題のアンカーを追加せず、そのツッコミにはオウム返しか相槌程度の機能しかない
  • にもかかわらず、その “相槌” は話のフォーカスをずらしていってしまう。 「今日が楽しみだった」という本題を繋げづらくなり、会話の潤滑剤としてはあまり有効でなくむしろ邪魔ですらある。 これが『拾ってほしい発言じゃないんだよな』という感想になる原因であろう。
  • つまり返答がネガティブな効果を持つ相槌となっている。

こうしてみると、例として挙げられているようなツッコミは、ボケた人が何を期待していたかに関係なく、シンプルに会話の邪魔になっていることがわかる。

別の例で考えてみる

元の投稿が理解されていないのは、例が良くないという面もありそうだ。

例として出されている「夜しか眠れなかったわ」は定番すぎて定型のツッコミを待つ枕詞のように見えてしまうので、そのようなツッコミを嫌う人に対して「お前がツッコミを誘ってきたんだろ」という批判的感想を持ってしまうのは理解できる。 ここで違う例を出して、たとえば「八百屋で『はい300万円ね!』と言われて『計算間違ってますよ』とか『300万円ではないと思います』と退屈なツッコミを入れるのは無粋だし、明らかな本題 (300円払ってください) から逸れている」のような表現をしていれば、もう少し受け入れられやすかったのではなかろうか。

「300万円ではないと思います」に対する素朴な感想は「当たり前だ」だろうし、「勘違いしすぎだろ(笑)」に対する感想は「本気で勘違いしてたわけないのはお前もわかってるだろ」だし、「ちゃんと寝てるのかよ(笑)」に対する感想は「だからそう言ってるだろ」だろう。 そういったツッコミは、それ自体が何の面白さも非自明さも持っていないし、会話のフックも追加しない。 つまりそれが退屈で無粋であるということだ。

ツッコミが無粋になるとき

そもそもボケに対して「解説としてボケの別表現や自明な指摘を加える」というのが、ボケの存在を第三者に向けてわかりやすく強調すること自体が目的の一部となっている漫才のフォーマットであって、一般の日常会話においてこの形式が適しているとはいえない。

「渾身のボケ」で皆を笑わせることが目標なのであれば丁寧に下準備をして爆発させるのも良いが、くだらない小ボケがそれに該当しないのは明らかだ。 「疲れすぎて金曜日かと思ったわ」で\ドッ/となることは発言者も期待していないし、期待していると感じる聞き手もあまりいないだろう。 そう考えると、小ボケを拾って丁寧にツッコミを入れてしまうのは雑談をしたい人を漫才の舞台に引き上げているようなもので、全然噛み合っていないということになる。

明らかなボケに対して解説や明示的な追認のようなくどい言葉を追加するのは、とても軽妙な会話とはいえない。 その無粋を残念に感じる心の動きは、必要もなく小ボケを挟んでしまうような遊び心のある話者にとってこそ自然で妥当なものといえよう。

ではどうすればいいのか

くだらない小ボケにツッコミを入れるのが無粋なら、どうするか。 これは個人的な美学からの意見にすぎないが、本題から逸れないように (あるいは本題にすぐに戻れるように) ボケを重ねるのが良いのではなかろうか。

たとえば以下のようなことだ。

  • 「今日が楽しみすぎて夜しか眠れなかったわ」に対して
    「そりゃ困ったな、今日の楽しみに備えてもう少し寝とくか?」とか。
  • 「まだ月曜日か、疲れすぎて金曜日かと思ったわ」に対して
    「そのうち週末で疲れがとりきれなくなって土日すら金曜日になりそうだな」とか。
  • 「はい300万円ね!」に対して
    「最近の野菜は高いですね、銀行に寄っといてよかった〜」と言いながら300円払うとか。

話したい本題があったなら、ボケ返しをスルーするなり乗っかるなりして続ければよく、それで誰も困らない。 本題はどうでもよくボケる方が楽しそうなら、どんどん上にボケを重ねていけばよく、ボケを返せなくなったところで投了としてツッコミで締めればいい。 この場合むしろボケの連鎖自体が本題となるから「小ボケにツッコまれて『拾ってほしい発言じゃないんだよな』という感想になる」ということは起きないだろう。

この流儀だとそもそも発端がくだらない小ボケなので、返答が爆笑するほど面白くなくとも (同程度に「くだらない」小ボケでも) 許されるという気楽さもある。 ぷよぷよやテトリスで連鎖させると1回1回が小粒な消去であっても勝手にポイントに倍率がかかっていくようなものだ。

そんなに頻繁にボケに便乗できるものか、いつもボケることを考えるのは大変だ、と思っただろうか? もちろんその通りで、リアルタイムに進行する会話において予測不可能なタイミングで投入された小ボケに乗っかって更にボケるというのは簡単なことではないし、頭を使う。 良いコミュニケーションとは必ずしも楽なものではない。

結局何を勘違いしているのか

端的にまとめるなら、「丁寧な会話」と「軽妙な会話」は違う、それどころか対極にあるということだ。

「いかなる発言でも (くだらない小ボケであっても) 丁寧に拾うことで喜ばれるだろう」という丁寧な会話の様式はリアクションそのものをよろこぶ発想によるもので、人間の感情や関係をケアすることを主眼に置いたコミュニケーションであるといえる。 一方で、「小ボケなり皮肉なり率直でない言葉をとにかく増やそう、積み重ねよう」という軽妙な会話の様式は、非自明な言葉や展開によって会話の情報量や予測困難さを増すことをよろこぶ発想で、これは言葉遊びという知的な遊戯を活発化することを主眼に置いたコミュニケーションであるといえる。

この違いをプロトコルミスマッチと言ってしまえばそれまでだが、少なくとも小ボケに安直にツッコまれることを残念に思う (あるいは鬱陶しく思う) こと自体は軽妙な会話を好む人からすればまったくもって妥当な落胆であり、決して「理解できない思考をしているコミュニケーション困難なバケモン」であるがゆえの感想ではない。 また、小ボケへの愚直なツッコミが持つ「丁寧に拾っても得るものがないが失うもの (本題からの逸脱) は発生する」という欠点は、どちらの様式を良しとするかに関係なく無視できない負の効果を持っており、むしろそのような無粋で安直なツッコミで返答をしてしまう人こそ、ある種のコミュニケーション能力 (具体的には、本題のスムーズな継続を妨げない能力) が高くないとさえいえる。

コミュニケーションというとどうにも感情対感情といったウェットな面が強調されがちなようだが、コミュニケーションは感情や共感のみによって成り立っているわけではないという側面は無視されるべきでないし、もっといえば、良いコミュニケーションというものを「対話相手の感情が盛り上がるよう “介護” すること」であるかのように矮小化するような風潮に簡単に呑み込まれるべきではないと思う。 感情介護コミュニケーションは要素を丁寧に拾っておけば成立させられるので楽かもしれないが、それが面白いものになるかは全く別の話である。

言語コミュニケーションの形は「丁寧な会話」だけではない。 楽しい会話とは、相槌を打ちさえすれば満点というような雑なものではないのだ。