2025年まで (含む) の意識低いカメラライフまとめ

2025年は写真を撮った (←情報量ほぼゼロの総括)。

カメラ

カメラというやつが手元にある。それもスマホとかコンデジとかではなくフルサイズセンサのミラーレス一眼が。

元来何か新しいことをしようというときはまず道具を揃えて、やろうと思えばひととおりのことはできるという状態を整えるタイプである。 使われていない液タブがモニタアームに生っているのはつまりそういうことなのだが、さておき、カメラもそのノリで買ってしまったものだ。 とはいえ液タブと違って素養が皆無の状態から何か始めるわけではなく、義務教育の頃から時折カメラを弄らせてもらって「この光景いいな」と思ったときにシャッターを切るようなことをしていたので、単にそれを再開してみようかと思っただけである。

スマートフォンでは駄目なのかと言われるとべつに駄目ではないのだろうが、それはおそらく「コンピュータのスペックがモリモリでないとプログラミングはできないのか」と問うのと同じことで、何かしようと思ったときに道具が強力であればあるほど雑にいろいろ実現しやすいというだけの話だ。 強い制約を掻い潜る不自由さを楽しみに目を向けるのは、ひととおりの範囲を動き回って堪能してからでも遅くない。 (などといいつつ、真面目にプログラミングをやりたいなら初学者は論理回路かC言語から初めるべきだと半ば本気で思っているので説得力はないが……。)

撮る……何を?

で、何を撮るのかという話だが、デカいカメラを抱えるようになって気付いたことがある。 それは私が何か撮りたいと思ったとき、その行為は光景や現象の単なる記録か画作りパズルかの二つに大別できるということだ。

記録

記録というのは、たとえば私の笑いのツボにハマった光景、中二心をくすぐった景色、興味深く感じた対象などを切り取るということである。

黒い壁に赤く光り浮かびあがる火災報知器とボタン。中二心をくすぐる
白い空、黒い海、デカい橋。中二心をくすぐる
くっきり引かれた夏、秋、冬の境界線

下にも置かない丁重な待遇を受ける、警視庁のマスコットキャラクターであるピーポくん。 きみ偉かったんだね…… (2023年)

「アドホック シープラ」。 一部の C++ プログラマを煽るのに使えそうだ

私がこういう写真を撮るとき、基本的にこれは人の心を動かすための表現ではない。 なぜなら共感を期待していないからである。 火災報知器で中二心が疼く人がそこまで多いことは期待していないし、モノクロの世界でデカい橋を目前にして「イカしてるじゃん」と思ったところでそれがどうしたという話だし、そもそも感情ドリヴンですらない単なる観察記録だったり半ばネタ画像だったりもする。 ただ後で昔の写真を見て「イカしてるじゃん」と自分で思えればそれで十分だから (そして実際そう思える感性だから)、作品として工夫する必要や欲求を感じていなかった。

画作りパズル

対して画作りパズルとは、「なんかいい感じの画になる画像をその場で錬成する」という遊びである。 記録ではないから、文脈 (すなわち周囲の状況) を残す必要がない。

木で重なりなく視野を充填するパズル (へたくそ)
ボケチャンス! (お笑いのことではない) と思って絞りを開いたらいい感じに奥行を感じられる仕上がりになったので満足した一枚

こちらもパズルとしての遊びであって、人に何らかの感情を与えようといういわゆる “表現” ではないから、場合によっては主題すらなくても良い。 面白そうな機能や機構があれば意味もなく活用すればいいし、ありきたりであっても構わない。

たとえば「テトロミノを敷き詰めるパズルは結局長方形になるからありきたりで単調だ」などと考えるのはパズルの本質を履き違えているといえる。 長方形になりそうな感じがしてきたところで詰めを考えて解を成立させるところがパズルたる所以なのであって、パズルとしての画作りも同じである。 何か収まりが良くなりそうだったり特定の構図や構成を成立させられそうなところで、どうにかして決め手を見付けるというのがこのパズルの楽しみ方 (のひとつ) だ。 リザルト画面、もとい成果物である写真が “素晴らしい” ものであるかは大した問題ではない……もちろん面白いものが出来上がるに越したことはないが。

ミラーレス一眼を抱えて変わったこと

2025年は私のカメラ遊びにおいて転機の年だったのだが、それを説明するには2025年より前のことから始めなければならない。

遊びのなかった時代

一眼ミラーレスを手に入れる前 (あるいは手に入れた後もしばらく) のカメラライフ (#ゴママヨ) がどうだったか思い返してみると、専ら「記録」のための写真しか撮っていなかったようである。 一時期のデータが物理的に行方不明になっているため確かではないが、手元に残っている限りの記録では、構図や構成で遊ぼうとした写真の最初の1枚は “躍動” 写真だった。

初めての躍動写真。ブレまくっていて下手 (自己評価) (2018年)
2ヶ月後の躍動写真。腕の動かし方のコツを掴んだらしい (2018年)
3ヶ月後の躍動写真。彩度と明度の高い卵を活かして躍動の中心にすると映えるということに気が向くようになってきた (2018年)
1.5年後の躍動写真。画像の中央にない主役を躍動中心にする余裕がみられる (2019年)

ここに至るまでに画作りで遊んだことがなかったというのも、そう不思議な話ではない。 一眼レフもコンデジもスマホも、基本的にモニタ (あるいはファインダー) は撮像面と平行で、概ねセンサーと近い位置にある。 この制約のもと、何も調べず何も教わらない状態で異常な姿勢をとってローアングルを撮ってみようとは自然には思わないだろう。 ローアングルという概念を知っていたところで、そこから想像されるのはいわゆる “ローアングラー” のような尋常ならざる姿であり、余程のことでもなければ真似してみようとはならないわけである。 (ガラケーは折り畳んでモニタの角度を変えられはしたものの、基本的には中途半端な角度で止めることを想定する構造ではなかったため利便性の面では大きな問題があった。)

そしてローアングルに限らず、自分の頭部からと異なる視野で撮るのは主に姿勢面で大変だ。 非凡な写真を撮りたいという欲や構図のビジョンがない以上、頭の高さ以外からの写真など撮ってみようかと考える機会などあるわけがなかった。

遊ばなかった時代

そこにきて一眼ミラーレスである。 こいつは背面の液晶ディスプレイの角度を変更可能で、なんと頭と全然違う位置にカメラがあってもセンサに投影されている映像を確認できる。 革命的ではないか! かような玩具を手に入れてしまえば、当然意味もなく濫用して遊んでみたくなるもの……と言えれば話は簡単だったのだが、そうは問屋が卸さない。

いくら姿勢の面で楽になったとはいえ、視点を低くしての撮影は社会的なリスクも伴う。 人の往来のある道端でローアングル撮影などできたものではない。 そもそも出不精なうえ、道具があっても知識は皆無。 構図で遊べることに気付くのはまだ先の話だ。

この頃の私はというと、ボケのことも視点のことも何も考えておらず、一眼ミラーレスを単に「暗いところでもそれなりに撮れて解像度が結構あるすごいデジカメ」くらいのものだと思っていた。 そんな状態でも空と電線を撮ることはできるので、実はあまり物足りなさは感じていなかったのである。

遊べる時代

いつまで昔話をと思うかもしれないが、安心してほしい。 ここからは2025年の話である。

転機になったのは、中央線快速への二階建車両の導入だった。

サービス開始に先立ち、グリーン車を連結した12両編成の電車を、10月13日以降順次導入する。2025年春のサービス開始までの間は、グリーン料金不要(普通車扱い)の「グリーン車お試し期間」を設ける。

中央線快速に2階建てグリーン車 25年春まで無料 - Impress Watch

この車両の1階はプラットフォームより低い位置にあり、窓からは地面すれすれの景色が見える。

中央線に新規導入された二階建車両
意図せずローアングルになった写真。

この1階の座席に座って写真を撮ったことで、やっと気付いたのである。 「あれ、もしかして画面内の地面の割合を変えると遊べる?」と。 ついでにボケがあると矢鱈に奥行感が出てくるらしいことにも同時に気付いてしまった。

それから様々な参考文献や動画を眺め、3ヶ月後の旅行では概ね今と同じスタイル——つまり、記録で撮るか、あるいは画作りパズルで撮るかという状態になっていた。

2025年の写真

さて本題の2025年の写真コーナーである。 先述のとおり “気付き” を得たのが2月初頭で、その後の最初のカメラ持ち歩き練り歩きイベントが約3ヶ月後の沖縄旅行だった。 ここから紹介を始めよう。

沖縄の自然

茂みから垣間見えた猫

猫が見えたので、フレームで囲いつつ前ボケで具体性を喪失させる。 なるほどね。 スタンダード構図再現ポイントが高い (?)。

ソロで生えていたキノコをローアングルで

ローアングルの練習。 背景はもちろんぼかす。 そのへんに生えている人間よりも1本しか生えていないキノコの方が大事だからね。

なお後日キノコほど大事ではない人間 (ぼけ) から「俺を背景のダシにしやがって」的な御言葉をいただいた。

ハイビスカスの花

接写に定番の主題であるところの、花。 もちろん望遠端で背景はぼかす。 空と葉と花で RGB 、ついでに塔の白で色のラインナップが揃っていい感じに……と思っていたら別のオタクのカメラがヌッと入ってきた図。 そりゃまあ狙いが被ることもあるわな。 背景に白があるおかげで、黒が入っても色のバランスは案外悪くない。

レンズフードにもまあまあピントが合っているせいで、花とともに外来異物の実在性が強調されてちょっと面白いことになっている (個人の感想)。

一応乱入カメラのないバージョンも撮れている。 こちらが当初意図していたものだが、逆に物足りなく見えてしまうようになった。

空、鉄塔、電線

消えゆく夕焼けを背景に聳える送電塔と、空を渡る送電線

無骨な巨大構造物のひとつの極致であるところの鉄塔、色を変えつつある空、そして我が物顔で空を渡る電線。 オタク (一人称) の大好物である。

視線誘導がそこそこいい感じにきまっている気がする。

電線が集中線のようにもなっており、戦隊ヒーローが集結してポーズをとっている構図のような頼もしい印象を若干受けてしまうのは私だけなのだろうか。

夕焼けを背景に聳える送電塔と送電線

赤と黒の対比はそれだけで映えるので “いい感じポイント” (何?) を積みやすい。

骨組だけの鉄塔は逆行で真っ黒になっても黒の面積比が少ないため潰れた印象を受けづらく、かなり使いやすい。

鉄塔と電線が多い → うれしい!

高圧線だと秩序立って複数の線が長距離を走るため、配置を制御しながらお手軽に空を汚せて奥行もパースから自動的に感じやすい。 初心者向きの題材なのかもしれない。

リリス

リリス

同じような姿勢のリスが2匹、フォーメーションでも組んでいるのかという並びで姿を見せた一枚。 鉄道車両を複数並べるときこういう見せ方をしがちな気がする。

玉ボケ

花から溢れたような、あるいは花へと跳ねているような光の玉

なるほど玉ボケというのは情報を失いつつも存在感はあるので、装飾として扱いやすいということに納得がいった一枚。

光にリズム感があるのが良い。

もう少し絞りを開放すれば玉ボケも大きくなったが (実際に変えながら撮って確認した)、この写真ではこのくらいがちょうど良いと感じた。

光の玉を運ぶ橋

「デカい橋、大変結構」と思いながら記録のつもりで撮りまくっていたところ手前にピントが合ってしまい、橋がボケた。 偶然の産物だが、ぼかすことで自動車の実在感というか生活密着感みたいなものを一気に追放できるのが強すぎることを実感した一枚。

ちなみに橋にピントを合わせた写真もあるが、こうなるとあまり面白みのある画像ではないな。

鳥と彫像

勝利の女神、鍛冶屋、そして鳥

鳥や花を頭に乗せていると基本的に滑稽なニュアンスを伴うが、これが高さをヒエラルキーとする文脈に組み込むと尚更面白く見える。 顔を見せずこちらに尻を向けているせいで鳥が尚更記号的な様相を呈しているのもそれを加速している。

分割

画面を分割する。 それだけである。

何らかの対比にするといい感じになるとかならないとか。

放射線状の分割
左右の分割
左右のち上下の3分割
斜め分割

来年は

写真撮影というのが存外に遊べることに気付いた年だった。

とはいえ結局まだまだ「記録」の写真が大半である。 2026年はもう少しガジェットとしての使い方とか遊び方面を模索してみてもいいかなと思っている。

ボケ

まずボケというやつが玉にしてもよし、背景を弱めてもよしで雑に強すぎるので、もっと使っていきたい。 特に午前に起きられない生活習慣からすると外出後半は日没後になっていることがしょっちゅうなので、デカいセンサーの暗所性能を活用しつつ、そこら中にある光源をうまく活用できると面白くなるはずだ。

絞り開放

両側10車線道路……なのだが、本題はそこではない。

これは望遠端で圧縮効果というやつを使ってみたくて10車線道路 (freeway, いわゆる高速道路) を撮影したものだが、ここで紹介したいのは道路や圧縮効果ではない。

実はこれ、フェンスがレンズにモロ被りする形で撮影しているのである。 フェンスの隙間が小さすぎてレンズをくぐらせることができなかったが、絞りを開放してほぼ消滅させることができた。

今回は超便利という程度に留まったが、なにか極端なボケで面白いことができると面白いんだけどなぁ (トートロジー) という気持ちがある。

構図

最近たまに映像作品の表現技法などの動画を観ていて、当然といえば当然だろうが写真に大いに通ずるところがあると感じている。 真面目に創作をしたいわけではないが、知っていて初めて見えてくる合理性というのもあるので、たまに映画など眺めつつ目を養いたいものだ。 (などといいつつ結局映像作品を観ている間は内容の把握で手一杯で、構図など気にしている余裕はないことがほとんどだが。)

とりあえずは画角の選択で少しは迷いが減るように修練するところからか。

筋肉

レンズを抱えるにせよ出歩くにせよ、最低限の筋肉がないと消耗が大きすぎることが知られている。 三脚などを使いたくない私は、尚更筋肉の必要性が高い。

欲しがるだけで手に入るなら苦労はないが、苦労はしたくないなぁ。 技術の力で手ぶれ補正とかノイズ除去とかどんどん最強になってくれ。 たのむ。

積極的な外出

嫌です。

やっていき

2026年はもっとカメラで遊んでいきたい (言うだけならタダ)。

(ところで風景パズルで思い出したが、7年前に買って少しだけプレイしてからずっと放置している The Witness どうしよう……。)