便所は人を呪う
またしても便所に呪われたので、お裾分け。
あらかじめ感謝しておきます
英語には “Thanks in advance.” という表現がある。 直訳すると「あらかじめ感謝しておきます」とでもいったところか。 何らかの依頼やお願いの際に感謝の前払いをしておくことで、感謝の対象となった行為をしないといけないかのような義務感を与えてお願いを通しやすくしようという、闇金でいうところの「押し貸し」のようなテクニックである。
こうした「置きにいく前払いの感謝」は英語圏だとたまに見るが (たとえばネット掲示板で質問をしている人などが文末に添えていたりする)、日本語ではあまり見ることがない——一部の例外を除いて。
いつもきれいに使っていただき、ありがとうございます
便所の張り紙である。
利用者がいつも便所をきれいに使っており今回その文章を読んだ人もそうであるかのような前提を、感謝の前払いの形で押し付けることで、読者が既に受け取った感謝の代価としてそれを実現するよう圧力をかけている。 このような内容の掲示物は (女子便所のことは知らないが) 男子便所に典型的でそれなりの頻度で見られ、便所での登場に限っていえば特に珍しいというほどのものでもない。
そして “Thanks in advance" が機能と構造の面で「トイレをいつも綺麗に使っていただき、ありがとうございます」と等価であることを気付いて以来、私は便所からかけられた呪いを解けずにいる。
呪い
呪いというのはつまり、あらゆる “Thanks in advance.” を見るとまず最初に「トイレの貼り紙だ……」と思ってしまうという、強力かつ不可避な連想のことだ。 いまの私は、web の片隅のなにげない掲示板からビジネスメールに至るまで、あらゆる依頼やお願いの中に便所を見出しかねない状態にある。 そして便所にこのような呪いをかけられたのは初めてではない。
私の受けた初めての呪いは「ラベンダーの香り」だった。 ラベンダーの香りをかぐと「便所の匂いだ」と感じてしまう呪いである。 私と近い世代の少なからぬ人々は、小学校などでの経験によって同じ呪いを受けたことがあるのではなかろうか。
他にも、「水に流す」という慣用句が最初に水洗便所を想起させるようになる呪いや、PC の白いキーボードが日焼けなどで黄ばんだ色を「便座カラーだ……」と思うようになる呪いなども存在する。 読者諸氏もきっとそれぞれに呪われたことがあるだろう。
便所はたまたま縁のあっただけの概念を強力に吸い寄せて「便所のもの」として汚染し、いとも容易く人を呪う。 呪いが解けることは滅多になく、私たちは理性の続く限りその効果を見て見ぬふりすることを強いられ続ける。 実に恐ろしいことである。